こんにちは。福田泰裕です。
公立学校の教師は、どれだけ残業しても残業代は支給されません。
それは教師の勤務形態の特殊性によるもので、残業代の代わりに「教職調整額」というものが出ています。
今回は、この教職調整額ができるまでの経緯と内容を解説していきます。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
目次
教職調整額ができるまで
それでは、まずは教職調整額ができるまでの経緯を解説していきます。
戦後の教員給与と超勤問題
まず、教師の残業代の話は昭和23年(1948年)まで遡ります。
この昭和23年に、公務員の給与制度が行われました。
しかし教師の勤務時間は単純に測定することが困難であったため、教員の給与は一般の公務員より10%程度有利に切り替えられました。
その代わり、教員に対しては超過勤務手当を支給しないように決めました。
しかし、毎年のように給与改定が行われ、教員の給与の優位性はなくなりました。
更に、文部省(当時)から「超過勤務は命じてはならない」という指示があったにも関わらす、超過勤務が行われている実態が多くありました。
多くの都道府県では時間外勤務手当の支給を求める訴訟が起こり、社会問題にもなりました。
教員の勤務状況調査と法律改正案の廃案
このような状況から、文部省は昭和41年に1年間をかけて全国的な教員の勤務状況の調査を行いました。
このときの調査結果は、次のようなものでした。
【昭和41年度 文部省が実施した教員勤務状況調査の結果】
超過勤務時間の1週間の平均
- 小学校‥‥‥1時間20分
- 中学校‥‥‥2時間30分
- (平均)‥‥1時間48分
(年間52週から、夏休み4週、年末年始2週、学年末始2週の計8週を除いた、年間44週で算出。)
(※1か月(30日)の平均に直すと、小学校…5時間42分、中学校…10時間00分、平均…7時間42分となります。)
この調査の結果を踏まえ、昭和43年4月に「勤務の態様の特殊性に鑑み、当分の間、俸給の月額の4%に相当する教職特別手当を支給する」ことなどを内容とする教育公務員特例法の一部を改正する法律案が閣議決定され、国会に提出されました。
しかしこの改正案は、廃案となりました。
給特法の成立
そして昭和46年2月、人事院は「義務教育諸学校等の教員に対する教職調整額の支給等に関する法律の制定についての意見の申し出」を行いました。
その内容は、「その職務と勤務態様の特殊性に基づき、新たに教職調整額を支給する制度を設け、超過勤務手当を支給しない」というものでした。
人事院からの申し出を踏まえて、政府は「国立の義務教育諸学校等の教諭等に対する教職調整額の支給等に関する特別措置法(給特法)」案を国会に提出し、同年5月に制定され、昭和47年1月より施行されることになりました。
給特法の趣旨・教職調整額とは
このような経緯で成立した給特法の趣旨と、その内容を紹介します。
教員の勤務態様の特殊性
教員は勤務態様の特殊性があるため、一般行政職と同じような勤務時間管理はできません。
- 修学旅行や遠足など、学校外での教育活動がある。
- 家庭訪問や学校外の自己研修など、教員個人の活動がある。
- 夏休み等の長期の学校休業期間がある。
これらの教員特有の勤務態様により、勤務時間の管理は難しいとされてきました。
勤務態様の特殊性を踏まえた処遇
このような勤務態様の特殊性を踏まえ、教員については勤務時間内外の業務を包括的に評価して、
- 時間外勤務手当を支給しないこと。
- 給料月額の4%に相当する教職調整額を支給すること。
としました。
この4%という数字は、昭和41年度に文部省が実施した「教員勤務状況調査」で算出された1週間の平均超過勤務時間「1時間48分」が、給与を算出する時間の約4%だったことから決定されました。
これが、教職調整額4%が決定するまでの大まかな経緯です。
まとめ:教職調整額は昭和41年の勤務実態によるもの
いかがでしたでしょうか。
この記事の内容をまとめると、次のようになります👇
昭和41年(1966年)の調査によって定められた教職調整額4%は、なんと現在も変わっていません。
当時とは教員の働き方も大きく変わり、教員の超過勤務が問題となっています。
まずは私たち教員がこの法律についてよく知ることが、働き方改革の第一歩だと思います。
この記事をきっかけに、給特法が成立した経緯とその内容について知っていただけると嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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